2008年11月4日火曜日

 君|釣《つ》りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪《わ》るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分《わか》りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅《こうめ》の釣堀《つりぼり》で鮒《ふな》を三|匹《びき》釣った事がある。それから神楽坂《かぐらざか》の毘沙門《びしゃもん》の縁日《えんにち》で八寸ばかりの鯉《こい》を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜《お》しいと云《い》ったら、赤シャツは顋《あご》を前の方へ突《つ》き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟《りょう》をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生《せっしょう》をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極《き》まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計《かっけい》がたたないなら格別だが、何不足なく暮《くら》している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢《ぜいたく》な話だ。こう思ったが向《むこ》うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶《かな》わないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違《かんちが》いして、早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川《よしかわ》君と二人《ふたり》ぎりじゃ、淋《さむ》しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういう了見《りょうけん》だか、赤シャツのうちへ朝夕|出入《でいり》して、どこへでも随行《ずいこう》して行《ゆ》く。まるで同輩《どうはい》じゃない。主従《しゅうじゅう》みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極《きま》っているんだから、今さら驚《おど》ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想《ぶあいそ》のおれへ口を掛《か》けたんだろう。大方|高慢《こうまん》ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘《さそ》ったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪《まぐろ》の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手《へた》だって糸さえ卸《おろ》しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌《きら》いだから行かないんじゃないと邪推《じゃすい》するに相違《そうい》ない。おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度《したく》を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜《はま》へ行った。船頭は一人《ひとり》で、船《ふね》は細長い東京辺では見た事もない恰好《かっこう》である。さっきから船中|見渡《みわた》すが釣竿《つりざお》が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣《おきづり》には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫《な》でて黒人《くろうと》じみた事を云った。こう遣《や》り込《こ》められるくらいならだまっていればよかった。
 船頭はゆっくりゆっくり漕《こ》いでいるが熟練は恐《おそろ》しいもので、見返《みか》えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺《こうはくじ》の五重の塔《とう》が森の上へ抜《ぬ》け出して針のように尖《とん》がってる。向側《むこうがわ》を見ると青嶋《あおしま》が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松《まつ》ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望《ちょうぼう》していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹《ふ》かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直《まっすぐ》で、上が傘《かさ》のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙《だま》っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻《まわ》った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平《たいら》だ。赤シャツのお陰《かげ》ではなはだ愉快《ゆかい》だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議《ほつぎ》をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々《われわれ》はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑《めいわく》だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫《だいじょうぶ》ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那《こだんな》だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私《わたし》も江戸《えど》っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染《なじみ》の芸者の渾名《あだな》か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺《なが》めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨《いかり》を卸した。幾尋《いくひろ》あるかねと赤シャツが聞くと、六尋《むひろ》ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛《たい》はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆《ごうたん》なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰《く》り出して投げ入れる。何だか先に錘《おもり》のような鉛《なまり》がぶら下がってるだけだ。浮《うき》がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底《とうてい》出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人《しろうと》ですよ。こうしてね、糸が水底《みずそこ》へついた時分に、船縁《ふなべり》の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌《え》がなくなってたばかりだ。いい気味《きび》だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃《に》げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨《にら》めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙《みよう》な事ばかり喋舌《しゃべ》る。よっぽど撲《なぐ》りつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹《かつお》の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛《ほう》り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰《たぐ》り寄せた。おや釣れましたかね、後世|恐《おそ》るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸《つ》いておらん。船縁から覗《のぞ》いてみたら、金魚のような縞《しま》のある魚が糸にくっついて、右左へ漾《ただよ》いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと跳《は》ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。捕《つら》まえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振《ふ》って胴《どう》の間《ま》へ擲《たた》きつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭《なまぐさ》い。もう懲《こ》り懲《ご》りだ。何が釣れたって魚は握《にぎ》りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
 一番槍《いちばんやり》はお手柄《てがら》だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜《ロシア》の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落《しゃれ》た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝《しば》の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖《くせ》だ。誰《だれ》を捕《つら》まえても片仮名の唐人《とうじん》の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力《しゃりき》だか見当がつくものか、少しは遠慮《えんりょ》するがいい。云《い》うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤《まっか》な雑誌を学校へ持って来て難有《ありがた》そうに読んでいる。山嵐《やまあらし》に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
 それから赤シャツと野だは一生懸命《いっしょうけんめい》に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人《ふたり》で十五六上げた。可笑《おか》しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕《しゅわん》でゴルキなんですから、私《わたし》なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料《こやし》には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一|匹《ぴき》で懲《こ》りたから、胴の間へ仰向《あおむ》けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど洒落《しゃれ》ている。
 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞《きこ》えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清《きよ》の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗《きれい》な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶《しわくちゃ》だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥《は》ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣《りょううんかく》へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷《ひや》かすに違いない。江戸っ子は軽薄《けいはく》だと云うがなるほどこんなものが田舎巡《いなかまわ》りをして、私《わたし》は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切《とぎ》れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾《かたむ》けなかったが、バッタと云う野だの語《ことば》を聴《き》いた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭《めいりょう》におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田《ほった》が……」「そうかも知れない……」「天麩羅《てんぷら》……ハハハハハ」「……煽動《せんどう》して……」「団子《だんご》も?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話《ないしょばな》しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏《せった》だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸《たぬき》の顔にめんじてただ今のところは控《ひか》えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆《けふで》でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅《おそ》かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支《さしつか》えはないが、また例の堀田が[#「また例の堀田が」に傍点]とか煽動して[#「煽動して」に傍点]とか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動《そうどう》を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香《せんこう》の烟《けむり》のような雲が、透《す》き徹《とお》る底の上を静かに伸《の》して行ったと思ったら、いつしか底の奥《おく》に流れ込んで、うすくもやを掛《か》けたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢《あ》いですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿《ばか》あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚《も》たした奴《やつ》を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿《さら》のような眼《め》を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻《か》いた。何という猪口才《ちょこざい》だろう。
 船は静かな海を岸へ漕《こ》ぎ戻《もど》る。君|釣《つり》はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝《ね》ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草《まきたばこ》を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪《ろ》の足で掻き分けられた浪《なみ》の上を揺《ゆ》られながら漾《ただよ》っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発《ふんぱつ》してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故《えんこ》もない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒《おおさわ》ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々|癪《しゃく》に障《さわ》るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑《けんのん》ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟《かくご》です」と云ってやった。実際おれは免職《めんしょく》になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及《およ》ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互《たがい》に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力《じんりょく》しているんですよ」と野だが人間|並《なみ》の事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊《くく》って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変|歓迎《かんげい》しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢《がまん》だと思って、辛防《しんぼう》してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕《ぼく》が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒《めんどう》な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺《うかが》うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊《たんぱく》には行《ゆ》かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏《とぼ》しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書《りれきしょ》にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰《だれ》が乗じたって怖《こわ》くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人《おとな》しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫《とも》の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰《だ》れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠《しょうこ》のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等《ぼくら》も君を呼んだ甲斐《かい》がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好《い》いんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日《こんにち》ただ今に至るまでこれでいいと堅《かた》く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励《しょうれい》しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋《じゅんすい》な人を見ると、坊《ぼ》っちゃんだの小僧《こぞう》だのと難癖《なんくせ》をつけて軽蔑《けいべつ》する。それじゃ小学校や中学校で嘘《うそ》をつくな、正直にしろと倫理《りんり》の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論|悪《わ》るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落《らいらく》なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄《もや》でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶《きぜつ》ですね。時間があると写生するんだが、惜《お》しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛《ふえ》がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯《いそ》の砂へざぐりと、舳《へさき》をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶《あいさつ》する。おれは船端《ふなばた》から、やっと掛声《かけごえ》をして磯へ飛び下りた。

0 件のコメント: