2008年11月4日火曜日

 野だは大嫌《だいきら》いだ。こんな奴《やつ》は沢庵石《たくあんいし》をつけて海の底へ沈《しず》めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目《だめ》だ。惚《ほ》れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云《い》う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐《やまあらし》がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪《わ》るい教師なら、早く免職《めんしょく》さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖《くせ》に意気地《いくじ》のないもんだ。蔭口《かげぐち》をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極《き》まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違《ちが》う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢《わるもの》だなんて、人を馬鹿《ばか》にしている。大方|田舎《いなか》だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒《ぶっそう》な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐《とうふ》になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵《たいてい》の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻《まわ》りくどい事をしないでも、じかにおれを捕《つら》まえて喧嘩《けんか》を吹き懸《か》けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔《じゃま》になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向《むこ》うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果《はて》へ行ったって、のたれ死《じに》はしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢《おご》ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一|杯《ぱい》しか飲まなかったから一銭五|厘《りん》しか払《はら》わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師《さぎし》の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清《きよ》から三円借りている。その三円は五年|経《た》った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中《かいちゅう》をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏《ふ》みつけるのじゃない、清をおれの片破《かたわ》れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶《あまちゃ》だろうが、他人から恵《めぐみ》を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有《ありがた》いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊《たっ》といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘|奮発《ふんぱつ》させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有《ありがた》いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣《ひれつ》な振舞《ふるまい》をするとは怪《け》しからん野郎《やろう》だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、眠《ねむ》くなったからぐうぐう寝《ね》てしまった。あくる日は思う仔細《しさい》があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨《はくぼく》が一本|竪《たて》に寝ているだけで閑静《かんせい》なものだ。おれは、控所《ひかえじょ》へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握《にぎ》って来た。おれは膏《あぶら》っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗《あせ》をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑《めいわく》でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱《ひじ》を突《つ》いて、あの盤台面《ばんだいづら》をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰《だれ》にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎《なぞ》をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬《しのぎ》を削《けず》ってる真中《まんなか》へ出て堂々とおれの肩《かた》を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
 おれは教頭に向《むか》って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽《ろうばい》して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕《ぼく》は堀田《ほった》君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動《そうどう》を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙《みょう》に常識をはずれた質問をするから、当《あた》り前《まえ》です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼《いらい》に及《およ》ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君|大丈夫《だいじょうぶ》かいと赤シャツは念を押《お》した。どこまで女らしいんだか奥行《おくゆき》がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄《つじつま》の合わない、論理に欠けた注文をして恬然《てんぜん》としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚《はばか》りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古《ほご》にするようなさもしい了見《りょうけん》はもってるもんか。
 ところへ両隣《りょうどな》りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩《あ》るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴《くつ》の底をそっと落《おと》す。音を立てないであるくのが自慢《じまん》になるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒《どろぼう》の稽古《けいこ》じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭《らっぱ》がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛《でか》けた。
 授業の都合《つごう》で一時間目は少し後《おく》れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻《ちこく》したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金《ばっきん》を出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達《せんだっ》て通町《とおりちょう》で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外|真面目《まじめ》でいるので、つまらない冗談《じょうだん》をするなと銭をおれの机の上に掃《は》き返した。おや山嵐の癖《くせ》にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁《いんえん》がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣《ひれつ》をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤《まっか》になってるのにふんという理窟《りくつ》があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主《ていしゅ》が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝《けさ》あすこへ寄って詳《くわ》しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余《あ》まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭《ふ》かせるなんて、威張《いば》り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物《かけもの》を一|幅《ぷく》売りゃ、すぐ浮《う》いてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎《やろう》だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸《がか》りを云うような所へ周旋《しゅうせん》する君からしてが不埒《ふらち》だ」
「おれが不埒か、君が大人《おとな》しくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣《おと》らぬ肝癪持《かんしゃくも》ちだから、負け嫌《ぎら》いな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋《あご》を長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥《は》ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡《みま》わしてやった。みんなが驚《おど》ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼《め》が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢《かんぴょう》づらを射貫《いぬ》いた時に、野だは突然《とつぜん》真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖《こ》わかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだからとんと容子《ようす》が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏《まと》めるのだろう。纏めるというのは黒白《こくびゃく》の決しかねる事柄《ことがら》について云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰《ひまつぶ》しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座《そくざ》に校長が処分してしまえばいいに。随分《ずいぶん》決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、煮《に》え切《き》らない愚図《ぐず》の異名だ。
 会議室は校長室の隣《とな》りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子《いす》が二十|脚《きゃく》ばかり、長いテーブルの周囲に並《なら》んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端《はじ》に校長が坐《すわ》って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操《たいそう》の教師だけはいつも席末に謙遜《けんそん》するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込《こ》んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥《はる》かに趣《おもむき》がある。おやじの葬式《そうしき》の時に小日向《こびなた》の養源寺《ようげんじ》の座敷《ざしき》にかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主《ぼうず》に聞いてみたら韋駄天《いだてん》と云う怪物だそうだ。今日は怒《おこ》ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇《おど》かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好《かっこう》はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 もう大抵お揃《そろ》いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定《かんじょう》してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子《とうなす》のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世《すくせ》の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中《とちゅう》をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮《うか》ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々|蒼《あお》い顔をして湯壺《ゆつぼ》のなかに膨《ふく》れている。挨拶《あいさつ》をするとへえと恐縮《きょうしゅく》して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢《あ》ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
 このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも坐《す》わろうかと、ひそかに目標《めじるし》にして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫《むらさき》の袱紗包《ふくさづつみ》をほどいて、蒟蒻版《こんにゃくばん》のような者を読んでいる。赤シャツは琥珀《こはく》のパイプを絹ハンケチで磨《みが》き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語《ささや》き合っている。手持無沙汰《てもちぶさた》なのは鉛筆《えんぴつ》の尻《しり》に着いている、護謨《ゴム》の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうん[#「うん」に傍点]とかああ[#「ああ」に傍点]と云うばかりで、時々|怖《こわ》い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨《にら》め返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻|致《いた》しましたと慇懃《いんぎん》に狸《たぬき》に挨拶《あいさつ》をした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒|取締《とりしまり》の件、その他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊《いきりょう》という見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳《かとく》の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧《ざんき》の念に堪《た》えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎《とが》だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職《めんしょく》になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒《めんどう》な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云《い》っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極《きま》ってる。もし山嵐が煽動《せんどう》したとすれば、生徒と山嵐を退治《たいじ》ればそれでたくさんだ。人の尻《しり》を自分で背負《しょ》い込《こ》んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。彼《かれ》はこんな条理《じょうり》に適《かな》わない議論を吐《は》いて、得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏《からす》がとまってるのを眺《なが》めている。漢学の先生は蒟蒻版《こんにゃくばん》を畳《たた》んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気《ばかげ》たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞《しま》のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの手巾《はんけち》はきっとマドンナから巻き上げたに相違《そうい》ない。男は白い麻《あさ》を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届《ふゆきとどき》であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚《は》ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠《かんけつ》があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯《いたずら》をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙《ようかい》する限りではないが、どうかその辺をご斟酌《しんしゃく》になって、なるべく寛大なお取計《とりはからい》を願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。気狂《きちがい》が人の頭を撲《なぐ》り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有《ありがた》い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲《すもう》でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸《ねくび》をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々《とうとう》と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞《つま》ってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌《しゃべ》って揚足《あげあし》を取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊《とっかん》事件は吾々《われわれ》心ある職員をして、ひそかに吾《わが》校将来の前途《ぜんと》に危惧《きぐ》の念を抱《いだ》かしむるに足る珍事《ちんじ》でありまして、吾々職員たるものはこの際|奮《ふる》って自ら省りみて、全校の風紀を振粛《しんしゅく》しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮《こうけい》に中《あた》った剴切《がいせつ》なお考えで私は徹頭徹尾《てっとうてつび》賛成致します。どうかなるべく寛大《かんだい》のご処分を仰《あお》ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列《ちんれつ》するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起《た》ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢《とんちんかん》な、処分は大嫌《だいきら》いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然|悪《わ》るいです。どうしても詫《あや》まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説《おんびんせつ》に賛成と云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々《いまいま》しい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟《かくご》でいた。どうせ、こんな手合《てあい》を弁口《べんこう》で屈伏《くっぷく》させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑うに違いない。だれが云うもんかと澄《すま》していた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子《ガラス》窓を振《ふる》わせるような声で「私《わたくし》は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師|某氏《ぼうし》を軽侮《けいぶ》してこれを翻弄《ほんろう》しようとした所為《しょい》とより外《ほか》には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃《ころ》であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌《しんしゃく》を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄《ぐろう》するような軽薄な生徒を寛仮《かんか》しては学校の威信《いしん》に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚《こうしょう》な、正直な、武士的な元気を鼓吹《こすい》すると同時に、野卑《やひ》な、軽躁《けいそう》な、暴慢《ぼうまん》な悪風を掃蕩《そうとう》するにあると思います。もし反動が恐《おそろ》しいの、騒動が大きくなるのと姑息《こそく》な事を云った日にはこの弊風《へいふう》はいつ矯正《きょうせい》出来るか知れません。かかる弊風を杜絶《とぜつ》するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃《みの》がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰《げんばつ》に処する上に、当該《とうがい》教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と云いながら、どんと腰《こし》を卸《おろ》した。一同はだまって何にも言わない。赤シャツはまたパイプを拭《ふ》き始めた。おれは何だか非常に嬉《うれ》しかった。おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有《ありがた》いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面《かお》をしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落《おと》しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎《とが》める者のないのを幸《さいわい》に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃《こうげき》されても仕方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等《やつら》だ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀《ふうぎ》は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入《しゅつにゅう》しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋《そばや》だの、団子屋《だんごや》だの――と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅《てんぷら》と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味《きび》だ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒《しんぼう》にゃ到底《とうてい》出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇《やと》うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令《ふれ》を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽《ふけ》るとつい品性にわるい影響《えいきょう》を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽《ごらく》がないと、田舎《いなか》へ来て狭《せま》い土地では到底|暮《くら》せるものではない。それで釣《つり》に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚《こうしょう》な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖《おき》へ行って肥料《こやし》を釣ったり、ゴルキが露西亜《ロシア》の文学者だったり、馴染《なじみ》の芸者が松《まつ》の木の下に立ったり、古池へ蛙《かわず》が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑《の》み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯《せんたく》でもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢《あ》うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互《たがい》に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。

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